たられば書店 (仮称) 開業日誌

大阪・守口市に「まちの本屋」(たられば書店[仮称])を開こうとする試み

すべからく、こと、山本大介と申します。
大阪府・守口市近辺で本屋を開業しようと思っています。(今のところ)屋号は「たられば書店」。
日頃忘れてしまいがち/あきらめてしまいがちなこと、「もし、…し『たら』/きっと、…す『れば』」を叶えられそうな場所をつくりたいと思っています。

普段は4才の男の子の父親であり、現役「主夫」です。

いま、どんな本屋が求められているのか? ぼくはどんな本屋がしたいのか?
書店業にはほぼ就いたことのない、ずぶの素人ですが、そんなぼくが考え、実行する記録です。
※2014年12月以降、ずいぶん更新停止していましたが、再開しました。(2016.2.25~)

にちじょうごともちらほら書いています。にちじょうと本(屋)は地続きだと信じているので。



万能感

 昨夜(ゆうべ)、角田光代紙の月 (ハルキ文庫 か 8-2)』読了。
 銀行から1億円を横領した41才の女性の物語。ただ、事件を追うというよりは、主人公の彼女(梅澤梨花)に関わるものたちの「金銭感覚」のありようを描いている。現代に生きるぼくらの「金銭感覚」物語といったところか。読み進めていて、ぼくはその周辺の人たちの「金銭感覚」物語以上に、梅澤梨花の心理状況をもっとていねいに、もっとしつこく読みたくなってしまったのだけれど、読み終えてみると、まったく別の読後感、つまり、ぼくは、もっと「愛って何?」的な作品が書かれているのかと思いきや、ぼく自身の「金銭感覚」、ひいては、「たられば書店」の開業の是非をを省みることになり、とてもハッとしたというのが正直なところ。

(略)梨花は罪悪感も不安もいっさい感じることなく、自分でも説明のつかないその万能感の心地よさに、ひとけのないホームでひとり浸っていた。

 夫は多忙で、もう何日も夕食を食べていないとか、自分に触れることを拒んだまま四年がたとうとしているとか、結局なし崩し的に子どもをあきらめていることととか、夫婦二人でこの先何を目指して生きていくのかじつはわからないとか、自分に対して本気でもないだろう若い男の子と寝てしまったとか、あるいは得意先でおもしろくないことがあった、つまらないことで上司に注意を受けた、この一ヶ月に一千万の定期を新規でもらってきたのに評価されなかったとか、そんな日常のあれこれをすべて忘れ、またそんなあれこれにいっさい関係ない、特別な人間になったように思うのだった。そういう類の愉快さだった。その愉快さは、あの日の朝の万能感に似ていた。自分が選ばれただれかであり、いきたいところへいけ、ほしいものを手にできる、そんな気分に。

 上の文章は、主人公が横領に手を染め始めた矢先に書かれているもので、ここで触れられている「万能感」という感情がどんなものなのか、ぼくは非常に気になってしまった。

 「万能感」。
 ぼくが今、「たられば書店」の開業の資金の元手にしようとしているのは、実は、ぼく自身が稼いで貯めたお金ではない。5年前に亡くなった母から相続したものが、ほぼ大部分を占めている。
 その相続したお金で「たられば書店」を始めようとしているところに、この作品を読んで、とても罪悪感のようなものを感じてしまった。そして、でも、そうでなければ、決してぼくなんかが新刊書店なんかを開業できるはずも、しようとするはずもないし、これは、母がぼくの夢を叶えるために遺してくれたものだと思おうとしてきたが、それがそう簡単に割り切れることができるものでないことも事実だ。
 モヤモヤと納得できない何かが、いつもそこには残ってしまう。「こんなことで遣ってしまっていいのだろうか?」「これはきちんと母の遺志なのだろうか」とか。決して「無駄遣い」とは思わないけれど、どこかいつも「しこり」が胸の底の方に広がっている。
 ただ、「たられば書店」を開こうと決めて、ぼくを支えてきたのは、この母の相続金がある「万能感」だった。
 この後ろ盾があるから、物件探しにも、取次への電話も、この一ヶ月間、どんどん前に進んでいくことができたのだと思う。そういう意味では、この「万能感」は悪い側面だけでもない。やはり、お金の力はすごいというか、恐ろしいもので、両刃の剣だと思う。それが、じぶんがこれまで手にしたことのない額であれば、なおいっそう現実感がなく、するりと口から(「資金としては、~万円あります」とか)出てきてしまう。ただ、その「万能感」が、じぶんが努力して得たものであれば、持っていても分相応のものになると思うが、じぶんが何も努力せず得たものであるということに対する危うさが、この作品のなかで、主人公が後に戻れなくなってしまう感覚とよく似たものになるのではないか、という不安をもった。遣い方が違ってくると思うのだ。

 昨夜(ゆうべ)、この母の相続金を遣うことに罪悪感を新たにしたぼくは(「横領したお金」と「相続したお金」、他人のものが急にじぶんのもとに転がり込んできたという意味ではどこに違いがあるのだろう?)、そこから、物件は果たして「古民家」でいいのだろうか? と今更ながら、思い返し疑問をもつことにもなった。
 あの物件だって、大幅なリノベーションが必要なものであるし、そのリノベーションが可能なのは、母の相続金があるからであり、その大事なお金を、「儲からない」とわかっている(?)物件につぎ込んでしまってもいいものかどうか、それははなはだ疑問である。もっと別の物件で(例えば、売買可能な「下町ぐりーんまん」とか)、もっと別の使い道があるのではないか? そんなふうにも思えてきた。
 そうすると、これまでやってきたことが、全部否定されてしまうようで、とてもかなしかったが、でも、ぼくの「はじまり」(「たられば書店」をやりたいと思ったきっかけ)は、この母の死と、息子の誕生という、ひとつの「生死のセット」があったからこそで、今のようにただ定期預金に預けているだけで、「もしものときに」「万が一のときに」とただ持っているだけよりは、生きているぼくや妻や息子のしあわせや、生きる糧になるかもしれない「何か」(=それはいまのところ「たられば書店」)に賭けてみるというのも、決して間違ってはいない、と思い直すこともできた。
 ただ、そう思い直すことができたとしても、本の頁を閉じて、眠りにつこうとすると、感じてしまった「しこり」や「モヤモヤ」は、そう簡単に消えるものではなく、結局、今朝目が覚めてもそれは胸の奥に泥流のようにあった。いや、これは、解消するというよりは、「金銭感覚」を整えて、また、「母の遺志」をいつも確認しながら、尊重するためにも、ずっと持っていていいような種類のものだと思う。

紙の月 (ハルキ文庫 か 8-2)

紙の月 (ハルキ文庫 か 8-2)


 今朝、少し寝坊して、8時前起床。朝食の片付けをしつつ、妻と息子を見送る。
 洗濯機をまわしつつ、少し横になっていると、そのまま寝てしまい、目が覚めたら、9:30。急いで支度して、リトルカブに跨がり、「古民家」へ。
 きょうは、10時から、リノベーションをお願いしようと思っているK工務店の「寸法取り」の日だった。
 まず現れたのは、M不動産のYさん。「古民家」の鍵を開けてくれる。それから、K工務店のTさん、少し遅れて社長のKさん。
 「寸法取り」というぐらいだから、もっと実際にメジャーを使って物件の長さや広さを測るものだと思っていたら、きょうは物件の写真を何枚も何枚も撮られていたのみで、そういう作業はなかった。
 写真を撮りながら、Tさん、Kさんと、具体的なイメージの話。「もっとふつうに使える内装だと思っていた」とKさん。建具を含め、大幅なリノベーションが必要になってくると言われた。「この状態の物件だと、借りる前に大家さんともっと家賃などについて交渉した方がいい」ともYさんの前で言ってくれ、Yさんも「フリーレント(契約し、申込金だけ払えば、実際の家賃発生日を少し遅らせ、その間にリノベーション工事を行ったり、その他の準備をする)、家賃」については、交渉できるかもしれませんとのこと。
 1時間ほどで「寸法取り」の作業を終え、次回は30日に木村工務店で、見積もりに向けての具体的な打ち合わせをすることになった。

 12時前、帰宅。洗濯機にそのままになってしまっていた洗濯物を干したり、夕食の下準備。
 今夜は、19時からの「町本会」ファイナル@隆祥館書店に出席する予定で、夕方の息子のお迎えも妻に頼んである。帰りは遅くなりそうなので、きょうは、いったん、ここで開業日誌更新。
 「町本会」の感想などは、また明日にでも。

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