たられば書店 (仮称) 開業日誌

大阪・守口市に「まちの本屋」(たられば書店[仮称])を開こうとする試み

すべからく、こと、山本大介と申します。
大阪府・守口市近辺で本屋を開業しようと思っています。(今のところ)屋号は「たられば書店」。
日頃忘れてしまいがち/あきらめてしまいがちなこと、「もし、…し『たら』/きっと、…す『れば』」を叶えられそうな場所をつくりたいと思っています。

普段は4才の男の子の父親であり、現役「主夫」です。

いま、どんな本屋が求められているのか? ぼくはどんな本屋がしたいのか?
書店業にはほぼ就いたことのない、ずぶの素人ですが、そんなぼくが考え、実行する記録です。
※2014年12月以降、ずいぶん更新停止していましたが、再開しました。(2016.2.25~)

にちじょうごともちらほら書いています。にちじょうと本(屋)は地続きだと信じているので。



山下賢二『ガケ書房の頃』の夜


■ 背割堤

 山下賢二『ガケ書房の頃』(夏葉社)、読了。
 こんなに時間を忘れて読み進めた本は、とても久しぶりだった。山下さんの文体、そして三島宏之さんの写真がすばらしい。

 4/3(日)、雨粒が今にも落ちてきそうな空。妻と息子は朝から、奈良・葛城市にある二上山ふるさと公園へ、妻の友人と会うために出かけた。
 ぼくは、15時すぎ、京阪電車に乗り、まず、京都・八幡市にある「背割堤(せわりてい)」という場所にひとりお花見に行った。先日、行きつけのに散髪に行ったとき、店主のHさんがおすすめしてくれたお花見スポットだった。ぼくは、それまで「背割堤」のことをまったく知らなかったが、ネットで調べてみると、けっこう有名なお花見スポットらしく、人が多そうだったので夕方から出かけることにした。
 京阪の八幡市駅に降り立つのは、とても久しぶりだった。子どもの頃、何度か母に連れられて、石清水八幡宮に来て以来かもしれなかった(八幡市駅から乗る「男山ケーブル」が楽しみだった)。駅を北に歩いて、すぐに御幸(ごこう)橋があり、そこから見える桜は、すでに圧巻だった。木津川を渡り「背割堤」に着くと、まさにそこは「桜のトンネル」で見通す限り、ずっと先まで桜が続いていた。思った通り、花見客はほとんど帰った後で、それほど人もいなかったので、ゆっくりと歩いた。

 少し歩いたところで堤防を下りて、下から桜並木を眺めてみた。芝生にペタンと座って、しばらくぼんやりと眺めていた。駅に戻る途中、宇治川と木津川が流れる上の鉄橋を京阪電車が走っているのを見て、ぼくは、正直、桜よりもそちらの方が興奮し、ずいぶん長い間見ており、鉄橋の近くまで行って見たかったが、iPhoneの時刻表示を見ると、18時を少し過ぎたところで、そろそろその場を後にしなければならなかった。

■ 愛はそういうことですよね

 また八幡市駅から京阪の普通列車に乗り、丹波橋駅で特急に乗り換え、出町柳駅で下車。叡山電車に乗り換え(「きらら」という展望列車に乗れて嬉しかった。「外向き」の座席に座れ、ゆっくり夜の京都の町を堪能しようと思っていたら、隣席の中国人とおぼしき外国人の家族連れが、やたらと話しかけてきて少々辟易)、一乗寺駅で下車。
 久しぶりの一乗寺の町を西へ。19時少し前、恵文社一乗寺店に着いた。その夜、恵文社一乗寺店COTTAGEで行われる「『ガケ書房の頃』(夏葉社)刊行記念トークショー」に参加するためだった。
 山下さんとは、まだガケ書房の店主だった、2014年11月21日「早川義夫さんトーク&ライブ『ぼくら本屋のおやじさん』」に行ったとき(参照)、少しご挨拶させてもらって以来だったし、夏葉社の島田さんとは、同年12月12日、(個人的にとてつもなく大きな失意のなか…)東京堂書店で行われた「町には本屋さんが必要です会議シンポジウム」に出席させてもらったとき(参照)、『本屋会議』(夏葉社)にサインしてもらいながら、ちょこっと話をさせてもらって以来だった。

http://blog.tarareba.jp/entry/2014/11/21/233000blog.tarareba.jp

http://blog.tarareba.jp/entry/2016/02/25/180338blog.tarareba.jp

本屋会議

本屋会議

  • メディア: 単行本

 開演にはまだ少し時間があったので、店内をぶらり。ちょうど、夏葉社の島田潤一郎さんと、元・ガケ書房店主/現・ホホホ座の山下賢二さんが店内に居られたので、まず、島田さんにご挨拶した。実は、山下さんとも初対面ではなかったが、もちろん、覚えておられないだろうから、少しだけ会釈をした。
 それから、ギャラリーアンフェールの方へ、足を運ぶと、とても驚いたのだけど、植本一子写真展「オーマイドーター」が開催されており、以前、アオツキ書房に行ったときに、円盤の田口史人さんが書いた『二◯一二』とともに、植本一子さんの写真集「オーマイドーター」、そして『かなわない』も購入し、読んで、いつか生で写真を見てみたいな、と思っていた。偶然の出会いだった。じっくり写真を見ていると、写真集には収録されていなかった作品も展示されており、やっぱりちょっと泣きそうになった。芳名帳(?)に「愛はそういうことですよね。たられば書店・山本大介」と書いて、『働けECD わたしの育児混沌記』を購入し、トークショーの会場に入った。

かなわない

かなわない

  • 作者:植本一子
  • 発売日: 2016/02/05
  • メディア: 単行本
働けECD わたしの育児混沌記

働けECD わたしの育児混沌記

  • 作者:植本 一子
  • 発売日: 2011/08/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

■ フラットでいること

 会場は、予想通り満員だった。さっそく、山下賢二『ガケ書房の頃』を購入。その日は、気分的に後ろの席に座りたかったが、いちばん前の席しか空いていなかった。
 その日が44才の誕生日だったという山下さん、夏葉社の記念すべき刊行20冊目が『ガケ書房の頃』という島田さん、お二人の軽妙、且つ、味わい深いお話は、時間が忘れるほどだった。実際、トークショー後に『ガケ書房の頃』を読んでみると、そこでお話しされた内容は、ほぼ本書に書かれていることもあり、ぼくは、それを当日の山下さんの声が聞こえてくるような感じで、ある種反芻して読むことができた。ただ、ひとつ、これは、トーク終了後の質疑応答時にぼくが質問させてもらったことでもあるのだが、山下さんの人柄(島田さんは、それを「マイルド」と表現されていた)、つまり、山下さんがどうしていろいろな人に愛されるのか? という問いについて、トークショー冒頭、島田さんは「小沢健二さんと山下さんの関係にヒントがある」と仰られていた。小沢健二さんと山下さんの関係は、本書にも出てくるので、ここでは書かないが、ぼくは、まだ本書を読む前だったので、お二人に対して「冒頭、島田さんは『小沢健二さんと山下さんの関係』に、山下さんがどうしていろいろな人に愛されるのか? という答えがあるとお話しになっていましたが、トークのなかでは、結局、あまりその関係や、山下さんの人柄について触れられていなかったように思いますので、もう少し詳しく教えていただければうれしいのですが、いかがですか?」と質問した。
 その質問に対し、山下さんは、友部正人さんとの初対面時の、友部さんの「目」について、「僕はあの磔磔の夜以来、どんな有名な人と会ってもあまり緊張しなくなった。それは、あのときの友部さんの目が魔法を解いてくれたからだと思っている」(本書内「ライブはじまる」P.139~の項)というエピソードを紹介してくださった。当日は、「あれ以来、どんな有名人にあっても『フラット』でいられるんですよね。小沢(健二)さんとの関係でもそうです。その『フラット』さといつものが、質問の答えになっているかどうかわかりませんが(笑)」と答えてくださった。
 山下さんがどうしていろいろな人に愛されるのか? それは、山下さん自身が分析するに、誰とでも「フラット」、つまり、「対等な関係性」を持てるから、ということらしい。山下さんがどうしていろいろな人に愛されるのか?=ガケ書房がどうして続けられてきたか、そして、ホホホ座になっても続けられているのか? そういうことと同義だとぼくは思うのだけれど、(お客さんとはもちろん、誰とでも)「フラット」でいること、それが長続きの秘訣だということは、ぼくもお店を続けていくうえで覚えておきたいことだと思った。

■ できるもんなら、やってみろ

 ぼくが、その夜の山下さんのお話で、いちばん印象に残っている話(というか、あの夜、あの場所にいた人なら、誰もがそのことをいちばんに挙げると思うのだが)。…それは、山下さんとお父さんの関係だった。
 本書にも書かれていることでもあるが、山下さんが18才のときに「家出」をし、横浜でガードマンの仕事を見つけ、最初は住み込みで仕事をしていたのだが、ある人の紹介から安いアパートを借りることができそうになった。ただし、それには条件があって、その条件とは「親に連絡を取るということ」で、山下さんは数ヶ月ぶりに京都の実家に電話をし(その電話のエピソードもかなり泣かせるのだけど)、実家に戻った。
 そのとき、山下さんがお父さんに対して言ったことばがあった。

 「できるもんなら、やってみろ」

 だったという。そのエピソードは、本書『ガケ書房の頃』には書かれていない。
 「家出して、ひとり見知らぬ土地で、仕事も部屋も見つけ、そんな18才の子どもが、父親を見返したかったんでしょう」、「よくある『ケンカで父親を負かしてしまった』ときの苦い気分です」というようなことを、山下さんは仰っておられたが、そのことばを発したときの複雑な思いは、今でもずっと残っているそうだ。
 ぼくは、その18才の山下少年にはもちろん同調できるし、「よかったな、がんばったな」と、そのとき答えてくれたらしいお父さんの気持ちにも、息子がいる今、なんとなく同調できるような気がする。それを、このトークショー内で話されたことに、とても意味があったと思うし、ぼくにはいちばん強く響いた*1

 そして、ぼくは、その事実を、その日の夜、山下さんが話されているのを聞いて初めて知ったのだが、山下さんが31才でガケ書房をオープンするときの資金は、お父さんが亡くなられたときの「遺産」も大きな助けになっていたようだ。本書にもそのことは書かれている。

 (略)そんなとき、母から父が生前かけていた保険の話を聞かされた。僕にもその何分の一かを受け取る権利があるという。思いもよらぬお金だった。そのとき、ぼくがすぐに思ったのはやはり書店開業のことだった。父が背中を押してくれたような気がした。これまでどんなことでも自分で稼いだお金でやっていこうとしてきたし、やってきたつもりだった。でも、まとまったお金というのは、その場しのぎで生きてきた僕にとっては、やはり無縁のものだった。新刊書店はある程度の資金がないと、開業は難しかった。僕は、そのお金を使わせてもらうことにした。

「死がスタートになることもある」(P.86)

 それから、ガケ書房がオープンしてから、初めての苦難に遭遇したときのことを、山下さんは、こんなふうに書いている。

(略)そのころ、準備したお金は底をつこうとしていた。僕は工務店の人たちを残して、一人で二階に上がった。妻に相談の電話をかけた。電話の向こうで妻は、子どもたちの世話に追われてイライラしているようだった。僕が空調のことを告げると、それどころではないという感じで電話を切られた。それに対して僕はもう怒る気力もなかった。そして僕は、二階の天井裏のような部屋に大の字に横たわってしまった。もう何もかも終わりだ。僕は、父が残してくれたお金をあぶく銭として使っただけだったんだと思い、父に謝った。
 そのとき、電話がかかってきた。妻からだった。彼女は落ち着いた声でさっきのことを謝り、僕に、何があっても大丈夫だから、やるだけやってみたらと言った。電話を切ったあと、僕は久しぶりに泣いた。

「荒む店主」(P.188)

 とくに隠すことでもないし、いろいろなところで話しているのでここにも書くが、ぼくも、書店開業ということを意識し始めたのは、息子の誕生や、息子がこれから成長する守口市という地域への思いなど、いくつかのきっかけや理由があるが、そのなかの、現実的な大きな動機としては、2009年6月11日、22:35に62才という若さで逝った母の「遺産」があった。
 社会に出てからも、ずっとフラフラしてきたぼくが、書店開業、それも「新刊」書店開業などという大それた夢を見られたのも、その母の遺産があったからこそだ。ただし、その母の遺産の額をもってしても、残念ながら、どの取次も契約はしてくれなかった。2014年当時、予定物件の面接と、そこに置ける本の数をおおよそで計算してもらったときの、各取次との契約金額はその母の遺産ならなんとか足りていた。なので、それを払います、と言っても、物件の立地条件の悪さや、ぼくの書店員としての経験のなさ、守口市の住民の本の購買力、他の新刊書店との調整などのリサーチ結果、その他いろいろな原因があり*2、どの取次からも契約してもらうことはできなかった。
 ちょうど、その頃、ぼくは、上記にも書いたとおり、ガケ書房で開催された「早川義夫さんトーク&ライブ『ぼくら本屋のおやじさん』」の夜、まだガケ書房の店主だった山下さんに「お金は出すと言っているのに、どの取次も契約してくれないのですが、なにかアドヴァイスはないですか?」と相談している。そして、本書を読むと、なぜそのとき、山下さんがぼくに「冷たい」(と、ぼくが勝手に思った)態度をとられたのか、その理由はよくわかるのだが(参照:本書「伝説の元書店主に僕が聞きたかったことば」)、もちろん当時のぼくはそんなことは知る由がない。わらをもつかむ思いで、トーク終了後に、みんなの前で思い切って質問したのに、「あぁ、ガケ書房の山下さんなら、何か助け船を出してくれると思っていたけど、無理なんだな」と、かなりショゲてしまったことを覚えている。ぼくは、そのことを、この夜、本書にサインをしてもらっているときに、山下さんに告げた。山下さんは少し慌てて「いつのことですか?」と言われ、ぼくは「2014年秋の早川義夫さんのライブのときです」と答えたら「あぁ、」と仰って、謝ってくださったが、それはぼくの個人的な思いと、山下さんの個人的な事情が、不運にも重なってしまっただけだ。(山下さん、突然、不意打ちのように、サイン時にそんなことを告げてしまって、申し訳ありませんでした)

 ぼくも、これから、「たられば書店」を開業できたとして、おそらくどんなに順調だったとしても、いつか山下さんと同様の苦難がきっと訪れ、きっとぼくも「母が残してくれたお金をあぶく銭として使っただけだったんだと思い、母に謝る」日が来るように思う。そして、そのとき、ぼくはやっぱり妻に電話するだろう。妻はそのとき、山下さんの奧さんのように「何があっても大丈夫だから、やるだけやってみたら」と言ってくれるかどうかはわからないが、これまで、ずっと、ぼくが(息子が生まれて1年後に)仕事を辞め、主夫になったときも、そして、新刊書店をやりたいと言ったときも、新刊書店がダメになって古本屋さんにするといったときも、そしてそのどれもがダメになって、約1年、夢遊病者のような生活を続けていたときも、「何があっても大丈夫だから、やるだけやってみたら」と言ってくれはしないまでも、離婚もせずにそうした態度でい続けてくれてきたことを、とても感謝している。

 書店業をはじめる、続けるには、理解ある妻(だけではない、家族や友人なども含めて)が必要なのかもしれない*3

■ 30,000円!

 その他、「『ガケ書房の頃』(夏葉社)刊行記念トークショー」の約2時間、書店(員)論、「セレクトショップ」論、「本屋は出来上がった料理(=本)にパセリを置くだけ」論、「(『ガケ崩れした』と言われないために・笑)、なんとしても店を続けたい」という思いがあったこと、京都ではガケ書房以降、取次と契約した個人書店は開店していないという事実から見える書店業界の現状報告、さらには、島田さんが、「この世で会いたい人は、小沢健二ケン・ローチつみきみほ」だということ、「(バンドブームを経験している山下さんや島田さんの)この世代は、なんでも音楽(バンド)に例えたがる」などなど、楽しく、そしてとても深い時間だった。
 
 トークショー終了後、ぼくは、島田さんに「たられば書店」再始動のことを少し報告し、(いろいろと、そして、ずっと励ましのことばを送ってくださっていた)長谷川書店の稔さんの姿を見かけたので、申し訳なかったけれど照れくさくて会釈だけさせてもらい、再度、ギャラリーアンフェールの方へ、足を運んだ。
 そして、植本一子写真展「オーマイドーター」の写真たちをまじまじと眺め、決断した。
 コツコツとレジに向かい、「すいません、あの植本一子さんの写真、いただきたいんですけど…」と店員の女性に申し出た。30,000円もする写真なんて、もちろん買ったことがなかった。いや、写真だって絵だって、こういうギャラリーはおろか、500円ぐらいの複製画ぐらいしか買ったことがなかった。41年間生きてきて、初めてだった。
 あれから2日経った今、妻にはまだナイショにしている。ぼくはその写真を「たられば書店」に飾りたいと思った。辛いとき、この写真を見れば「もう少し続けられるかも、続けよう」と、いつも見上げられる場所に。山下さんの『ガケ書房の頃』とともに、いつまでも置いておきたいと思った。写真は、着払いでもうすぐ我が家に届くはず。ほんとは、子どもたちの絵やカキコミが入った作品が欲しかった。でもそれは、残念ながら非売品で、ぼくが選んだ作品は、(上記にも貼り付けた)写真展の案内に使われているあの作品だった。
 ちなみに、この日、恵文社一乗寺店で買った本は、『働けECD わたしの育児混沌記』のほか、「Meets Regional 2016年 05 月号 [雑誌]」(誠光社堀部篤史さんの連載「俵屋町四三七番地」が始まったと聞いたので)、レイ・オルデンバーグ/マイク・モラスキー(解説)/ 忠平美幸・訳『サードプレイス―― コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」』、福岡晃子チャットモンチー)・庄野雄治(アアルトコーヒー)『徳島のほんと』(今度、徳島の親戚の家に遊びに行くので)。

Meets Regional 2016年 05 月号 [雑誌]

Meets Regional 2016年 05 月号 [雑誌]

  • 発売日: 2016/04/01
  • メディア: 雑誌
徳島のほんと

徳島のほんと


 その後、ぼくは、すぐに帰りたくなくて、一乗寺駅までの道中にあった「大黒屋」という酒屋で、とても久しぶりに、サッポロ「黒ラベル」の缶ビールを1本買い、雨がパラパラ降り始めていたが、お店の前にあったベンチで、いろいろなことを思った。

 ぼく自身、不思議だったのは、その夜、ぼくはお二人のお話を聞いていて、これまでのぼくなら、きっと山下さんや島田さんのお話に憧れや羨望みたいなものを強く感じて、強く嫉妬していたと思うのだけど、その夜はそれを感じなかった。たぶん、ぼくはすでに「同業者」の立場で聴いていたからだと思う。まだ開業もしていないくせに(!)。そして、お二人が話されていた、「本屋は多様性が大事」、その他の書店(員)論など、いろんな話をお二人から聞いて、それは「ごもっとも」だし、いちいち頷けることばかりだったけれど、もう、そういうことは「大前提」であり、現在、「セレクトショップ」が乱立する「逆金太郎飴現象」が起き、それらが飽和状態にある今、そんな「平和な」ことを言っていられる状況でさえないようにも思えた。
 でも、そのうえで、ぼくはやっぱり「たられば書店」をやってみようと思えた。そして、尊敬する山下さんに「できるもんなら、やってみろ」といつか言える、そんな「たられば書店」にしようと。
 今のじぶんの位置を確認するうえでも、もちろんただずっとがむしゃらに「おもしろいこと」をやり続けているお二人のお話を聞けたことも、その夜の収穫であり、喜びだった。
 山下さん、島田さん、ほんとうにありがとうございました。

 ビールを飲み終え、一乗寺駅から叡山電車(帰りに乗った車両は「ノスタルジック731号」だった)に乗って、ぼくはすぐ『ガケ書房の頃』を読み始めた。
 すると、どんどん引き込まれた。前半は、山下さんの子どもの頃の描写や、18才で「家出」してから仕事を転々とする様子が書かれており、それは、おそらく同時期に東京と神奈川の県境(町田・座間・相模原)でもがいていたぼく、そして、三鷹や阿佐ヶ谷で、自意識ばかり過剰でくすぶっていたぼくが、バブルが弾けた時代背景のもとに、イライラしながら、諦めながら生活していた様子、そのままだった。
 そして、列車が出町柳駅(終着駅)に着いたのにも気づかず、「なんか、この駅は、人がいっぱい下りたり乗ったりする駅やなぁ」とは思っていたものの、ふと車内アナウンスの声が「この列車は、鞍馬行き…」と伝えていたのが耳に入り、「え、鞍馬行き? どういうこと?!」とびっくりし、ほんとに折り返し出発する直前に我に返って、電車を飛び下りた。それほど、『ガケ書房の頃』にのめり込んでいた。
 その後、出町柳駅から守口市駅までの列車内でも、ずっと読んでいた。枚方市駅で特急から準急に乗り換えるときは、なんとか気がついた。

 夏葉社刊行の20冊目が、この『ガケ書房の頃』だという。
 なぜ島田さんが、山下さんにこの本を書いてみないかと持ちかけたのか、その理由はこちらに詳しいけれど、ぼくは、ますます夏葉社が好きになり、今後の刊行物が楽しみになった。
 そして、もちろん、今後の山下さんの、書店員の枠を越えた「ホホホ座」での展開、大いに楽しみにしたいし、「たられば書店」をやっていくうえでの、参考にさせていただければと思う。



山下賢二『ガケ書房の頃』(夏葉社)は、もうすぐ全国の一部書店の店頭には並ぶようですが、↓でも購入できるようです。
http://gake.shop-pro.jp/?pid=99695541

*1:このエピソードは、けっこう個人的なもので、あの場所に参加していない人以外に、このことを伝えるのはどうしようかと迷ったが、でも、このことこそ、ぼくはあの夜の核心だったと思うので、書かせていただいた

*2:ぼくは、そういったリサーチのような外部的要因よりも、ぼく個人としての資質が、各取次の担当者との関係性においてうまくいかなかったことが第一の原因だと思っている

*3:あと、遺産を遺してくれる親も(笑)

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