たられば書店 (仮称) 開業日誌

大阪・守口市に「まちの本屋」(たられば書店[仮称])を開こうとする試み

すべからく、こと、山本大介と申します。
大阪府・守口市近辺で本屋を開業しようと思っています。(今のところ)屋号は「たられば書店」。
日頃忘れてしまいがち/あきらめてしまいがちなこと、「もし、…し『たら』/きっと、…す『れば』」を叶えられそうな場所をつくりたいと思っています。

普段は4才の男の子の父親であり、現役「主夫」です。

いま、どんな本屋が求められているのか? ぼくはどんな本屋がしたいのか?
書店業にはほぼ就いたことのない、ずぶの素人ですが、そんなぼくが考え、実行する記録です。
※2014年12月以降、ずいぶん更新停止していましたが、再開しました。(2016.2.25~)

にちじょうごともちらほら書いています。にちじょうと本(屋)は地続きだと信じているので。



手を挙げた級友に

■ 「いつか電池がきれるまで」のエントリ

 先日、読者になっているブログ「いつか電池がきれるまで」の、3/22のエントリ「僕は『旅行』が苦手な、薄っぺらい人間です。」を読んで、何か、ずっと気になっている部分があったので、これから書きながら考えていこうと思う。
 「僕は『旅行』が苦手な、薄っぺらい人間です。」では、最近、バッシングを受けていたらしい、はあちゅうという人(どんな人なのか、ぼくはまったく知らない)について書き始められている。そして、筆者のfujiponさんは、彼女が(書いた)こと(はあちゅう 公式ブログ - 旅で人生が変わったとか言う人は中身がゼロなのです - Powered by LINE)を、こう肯定する。

あれだけ「世界一周」を売りにして世の中に出てきて、「作家」として活動している人が、自分のルーツをあえて否定して、「あの世界一周って、風景などへの瞬間的な感動はあったけど、旅続きというのはそんなに楽しくなかった」って告白しているのは、すごく率直だよなあ、って。 沢木耕太郎さんが「『深夜特急』の旅って、ほんと、つまんなかった。旅について偉そうに語るヤツって、薄っぺらい」って言ったら、とか想像してしまいます。 もし万が一そんなこと思っていたとしても、言わないほうが、本人的には得ですよね。 彼女にとっては、「旅」とか「世界一周」とか「美人女子大生」というのは「世の中に自分を売り出すためのツール」でしかなかったということなのでしょう。 すごく正直で、好感を持ちました。

僕は「旅行」が苦手な、薄っぺらい人間です。 - いつか電池がきれるまで

 (はてなブログの「引用」ツールを使うと、なぜか「改行」などがめちゃくちゃに壊されてしまう。なぜだろう、はてなよ。ごめんなさい、fujiponさん)
 さらに、fujiponさんは、「旅」について思うことを書いていくのだが、そこに引用されていたのが、山田ルイ53世ヒキコモリ漂流記』で、それも(引きこもり体質の)ぼくがすごくおもしろいと思った原因のひとつなんだと思うのだけど、結果、はあちゅうさんの言った(書いた)ことについて、

このエントリが炎上しているのは「人間として薄っぺらい」というネガティブワードが効いているのではないかという気がします。 そもそも「人生の薄さ」みたいなものって、誰かが判断できるようなものじゃないだろ、というか、僕が思うに「普通の人生って、みんなそれなりに厚みがあるような、薄っぺらいような、そんな曖昧なもの」ではないかと。 「美しい風景程度で、人生観変わるなんて、薄っぺら〜い」ってバカにするけどさ、普通の人生って、けっこうそんなものだよね。 そのほうが「強制収容所に入れられた」とか「両親に虐待されていた」などということで厚みを増してしまった人生よりも、よっぽど幸せでもある。 自分さがしの旅、なんていうのも、結局のところ、その薄っぺらさに何らかの「意味」みたいなものを見出したいという人間の「悪あがき」みたいなものなのかもしれないけれど、そこに疑問も抱かずに「わかったような気分になっている人間」「自分が薄っぺらくないと信じられる人間」って、僕は好きじゃない。

僕は「旅行」が苦手な、薄っぺらい人間です。 - いつか電池がきれるまで

 (またもや、引用すると「改行」や「行間」などがめちゃくちゃに。[再]なぜだろう、はてなよ。ごめんなさい、fujiponさん)
 と、締めくくり、後は、東浩紀弱いつながり 検索ワードを探す旅』に触れて、

人間なんて、所詮「ゼロ」であって、そこに何をインストールしているかの違いしかない。「薄っぺらい」のは事実だけれど、それはみんなそうであって、自覚しているかどうかなのです。

僕は「旅行」が苦手な、薄っぺらい人間です。 - いつか電池がきれるまで

 と、fujiponさんは書く。

ヒキコモリ漂流記

ヒキコモリ漂流記

弱いつながり 検索ワードを探す旅

弱いつながり 検索ワードを探す旅

■ 「もし万が一そんなこと思っていたとしても、言わないほうが、本人的には得ですよね」的なこと

 なぜ、ここに書かれていることが、こんなに喉の奥に引っかかった魚の骨のように気になるのだろう? と、3日前から、ずっとぼくは考えていた。
 まず、「もし万が一そんなこと思っていたとしても、言わないほうが、本人的には得ですよね」という部分。
 ぼくは、この「日誌」はもちろんだけど、普段の生活でも「もし万が一そんなこと思っていたとしても、言わないほうが、本人的には得」だと思われることを、よく口に出したり、書いたりして、誰かに伝えたりする傾向の強い人間だと思う。きちんと検査をしたわけじゃないので、ほんとうのところはどうなんだかわからないが、その傾向は人より強いとしても、人間関係を営むにおける強い自閉傾向や強い人格障害を有しているわけではないと自覚はしていて、いわゆる「空気が読めない(KY→死語?)」から、そういうことをよく口に出したり、書いたりして、誰かに伝えたりするわけではない。
 単に、言わずにはおれないのだ。単に、言った方が「オモロイんとちゃうか」と関西人ノリで思ってしまって、一瞬「これを言ったらどうなるのか?」ということを考えて、言わないでいることと比較して、「オモロそう」とぼくの頭が判断すれば、そこで言う。だから、もちろん、言わないこともものすごく多い。そして、そういうことを言う(伝える)ことによって、どうなるかというと、周りに10人の人がいたとすれば、6人は無関心スルー。2人はぼくに嫌悪感を抱いているのがわかり、1人は好意(オモロイ)と嫌悪の中間で揺れ動いていて、最後の1人が「オモロイ」と思ってくれる、という感じだろうか。もちろん、その比率は、その場その場で異なって、10人が10人とも無関心スルーのこともあれば、10人ともから嫌悪感がピリピリと伝わってくることもあるし、ほんとにたまに3人ぐらいが好意(オモロイ)の目で見てくれてたりすることもある。

 そして、そのことは、この「日誌」についても言える。
 この「日誌」については、できるだけ、書きたいことを書きたいように書くということをモットーに、これまでも今も書いている。そのことによって、ある人からは「赤裸々な文章でとても素敵なブログですね」と言ってもらえたこともあるし、これまで何店か、訪問した書店について書いてきたが「今まで数件雑誌等の取材を受けてきましたが、これまでで一番正確な当店の記事です」と直接ぼくに言ってくれた人もいた。けれど、その反面、「(こんなことを書くなんて)仁義に反する」と(ぼくのいないところで)言われていたことを後から人づてに知ったり、お叱りのご意見等もときどきいただく。
 もちろん、ぼくは、この「日誌」を書くことで、誰からもお金をもらっていないし、誰とも利害関係はない。そして、ぼくはプロの書き手でもない。そもそも、こんな「日誌」(ブログ)なんて、誰が読むんだろう? と思いながら、日々書いている。
 そして、ぼくがこの「日誌」を書いている理由は、第一に、じぶん用のメモ(後から記憶を辿るため)だ。そして、第二には、(おこがましい限りだが)もし、今後、誰かが「書店を開きたい」と思ったときに、この「日誌」を読んで、書店業界にも出版業界にもほとんど身を置いたことのない、ただの「本好き」であるずぶの素人の人間が書店を開こうとしたときに、どこで躓き、何に困り果て、どんな落とし穴に入り、いつ凹み、何をきっかけに「回復」し、どう足掻きながら、開業にまでこぎ着けたか(もしくは、こぎ着けられなかったか)を知って欲しい、と思っているからだ。
 もちろん、世の中には、そして、今はインターネットもあって、いくつかの「書店開業譚(おもに古書店だが)」みたいなものが存在する。ぼくは、北尾トロぼくはオンライン古本屋のおやじさん』は、その、今のネット古書店隆盛(いや、もう斜陽産業か?)の時代のずいぶん前に書かれた先駆的だった代表作だと思うし、好きな本だけれど、当然だが、そういう「開業譚」みたいなものを書ける人、書いたものが存在する「書店開業譚」は、どれも成功例でしかない。書店開業までに頓挫してしまったり、開業後すぐに廃業してしまったりした例は、きっと星の数ほどあるだろう。しかし、ぼくはむしろ失敗例を後世の人に残しておく必要があるのではないかと思う。

ぼくはオンライン古本屋のおやじさん

ぼくはオンライン古本屋のおやじさん

 以前、ぼくは新刊書店の開業を目指していた(2014年9月~11月ごろまで)。そして、暗礁に乗り上げた。その後、新刊書店開業の夢を抱きつつ、現実的になって、古書店、古本屋さんを開業することに頭を切り換え、それに向けて動き出していたが、やはり、どっちつかずではものごとはうまく進まない。どこかで「仕方なく」古書店、古本屋さんを開業することにした、という思いが付きまとった。そして、書店開業に向けての作業が面倒になり、何もかもが悪循環になり、2015年2月で、停滞、ストップ。ほんとうは、その停滞中のことも、この「日誌」で少しでも書き続ければ良かったと、今からだと思えるが(きっとその当時のことを書いていれば、とてもおもしろい内容だったはずだと思う)、当時は、じぶんのブログさえ開くのが嫌で、ブログごと削除しようかとも思ったことがあったが、なんとか思いとどまって、「非公開」で留めた。
 今、新刊書店を個人で開業する例は、とても少ない。
 だが、B&B(内沼晋太郎さん・嶋浩一郎さん)、(ちょっと個人とは言いにくい部分もあるが)かもめブックス(柳下恭平さん)、そして、最近ではTitle(辻山良雄さん)、そして誠光社堀部篤史さん)の例がある。B&Bの開業にいたる様子は、以前はネットで少し見られた(今も見られる?)。ボランティアのような「インターン」を募集されたりして、「みんなで」書店をつくる、という作業を、遠く大阪からパソコンの画面上で眺めていて、とても愛おしかった。かもめブックスも、開店前の数ヶ月ぐらいは、読み物も含めて楽しめた。Titleは、今でも「もうすぐあたらしい本屋が生まれます」が読める。誠光社は、各メディアの堀部さんのインタビューを読むことはできる。
 どれも、興味深く、どれもおもしろい内容だったが、ぼくは不満だった。やはり成功例やアバウトなことばかりなのだ。そして、たいていは、もう物件も、取次も、オープン日も決まっていて、開店することが前提で書かれたもの(もちろん、これが当然だとも言える)か、開店後に書かれたり、インタビューを受けたりした内容だ。リブロ池袋本店でマネージャーを務めていたという辻山良雄さんの「もうすぐあたらしい本屋が生まれます」が、少し違う、ほんとうに個人の視点で書かれていて、当時、ぼくは、(凹み期だったので)それを詳しくは読ま[め]なかったが、「これって、ものすごく異例のことなんだろうな」と思った。
 書店を開くという作業が、もっと「職業選択の自由」的に、若い人が誰でも目指せるようにハードルを低くし、いや、もしそれが、高いハードルだとしても、そのハードルの「高さ」や「質」を残して、見せてあげておかないと、若い新規参入者が、何から手をつけて良いのか、まったくわからないし、ただなんとなく「俺には、私には、きっと無理だろうから、やめよう」となってしまう。ぼくが思うに、そのことを誰かがやっておかないと、今の書店業界の衰退をさらに加速させると思う。ただ、幸運にも新規開店できた人が、「開店できました、万歳! みんな来てネ」というだけでは、その人たちは、おそらくすべてこの書店業界の現況を知っているのだから、少々無責任なような気がするし、現に、上記に挙げた書店の人たちは、何らかのかたちで皆、書店経営の傍ら、後に続く人たちへの「道」を示す活動をしている。

 ぼくには、書店業界でも出版業界でも、その他業界でも、なんのキャリアもほとんどもたない一介の主夫だ。主夫としても、かなりグウタラな方の側の主夫だ。
 だから、ぼくにできることといえば、今のところは、こうして「開業日誌」をつけていくことだと思っている。それも「もし万が一そんなこと思っていたとしても、言わないほうが、本人的には得ですよね」的なことを、中心に、とまではいかなくても、ぼくが書く必要がある、伝えておく必要があると判断したことは、誰に何を言われても、書き続けたいと思っている。
 ただ、唯一、ぼくに面と向かって(とか、メールなどでもいいけど)言わないで、この日誌で書かれたことや、「たられば書店」の開業について、陰でコソコソ言うことはズルいな、と思うけれど。それが、書店業界の人だったりすると尚更かなしい。少しでも良い書店業界、本業界にするための目標はきっと共有できているはず。ぼくが書いたり、行動したりしてることについて、これからの書店業界、本業界をいいものにするための批判なら、いくらでも直接ぼくにしてください。待ってます。

■ ゲス・分不相応・悪あがきばかりしている・しょうもないくだらない生き物としてのぼく

 話を少しfujiponさんのエントリ「僕は『旅行』が苦手な、薄っぺらい人間です。」に戻そう。

 「もし万が一そんなこと思っていたとしても、言わないほうが、本人的には得ですよね」という部分に次いで、ぼくが気になった部分は、「自分さがしの旅、なんていうのも、結局のところ、その薄っぺらさに何らかの『意味』みたいなものを見出したいという人間の『悪あがき』みたいなものなのかもしれないけれど、そこに疑問も抱かずに『わかったような気分になっている人間』『自分が薄っぺらくないと信じられる人間』って、僕は好きじゃない」というfujiponさんが書いたことだった。
 ぼくは、このフレーズを読んだとき、すぐ思い出したのが、円盤の田口史人さんが書いた『二◯一二』の「まえがきにかえて」で書かれていた、以下の文章だった。

 この本を読んで、言いたいことがある人もたくさんいるでしょう。お互いを絶賛しあわないと「ディスった」とか言われるような世の中ですから、この程度の批判でも今ではタブーに近い感覚になってきていますし、それが決別に直結することもありそうです。しかし、賛辞を送りあわなければならない関係の脆さといったらないと思います。そもそも僕もあなたも下衆でしょうもないくだらない生き物である「人間」なんですから、そのような賛辞に値する結果や行動など維持できるわけはないのです。それを維持しようと、お互いに裸の王様になりあっている状況の滑稽さと危険さから少しでも多くの人が逃れて、やっとこさのそこそこの人間であろうとしてくれることを希望しています。なんといってもそうでなければ、まさにそのくだらない僕自身がこの社会で生きていけないのですから。そうでなければ困るのです。

 
 「もし万が一そんなこと思っていたとしても、言わないほうが、本人的には得ですよね」的なことを言うと、ほんとうにすぐにみんな「ディスった」とか、言うようになった。
 簡単で、言い古されたことばだが、非難と批判をみんなはき違えている。「沈黙は金なり」かもしれないが、裸の王様に誰かが「裸だ」と言わないと、王様が気の毒に思えて、ぼくは仕方がない。もちろん「裸だ」と言った子どもは、絞首刑か斬首刑にされたのかもしれないし、よほど気の毒だということはわかっている。
 「沈黙は金なり」の語源というか、そのことわざは、正しくは「沈黙は金、雄弁は銀」だ。イギリスの思想家トーマス・カーライルの『衣装哲学』にある「Speech is silver, silence is golden.」から来たのだという*1
 「雄弁でありたい」とは、ぼくはまったく思わない。ただし、(誰かに伝わることを前提に)口に出したり、書いたりしなければ、見えてこないことというのは、たくさんある。
 そして、口に出したり、書いたりすることの中身は、今は、ほんとうに互いに絶賛することを前提としている。絶賛礼賛社会は、ひっくり返せば、すぐにヘイトスピーチ融合社会になると思う。現に、今、それはぎりぎりのところで並行を保っているが、おそらく、そんなものはすぐにすり替わる*2
 ぼくは、じぶんがゲスであり、分不相応であり、悪あがきばかりしている「しょうもないくだらない生き物である『人間』」であるということを、つねに自覚しているつもり。でも、とりあえず「悪あがき」させてほしい。賛辞は要らないので。今は、書店開業、という「悪あがき」を。

■ 反省とバトンタッチ

 損な役回りを引き受けることがかっこいいなんて、ほとんど思ってない(少しは思っているのか、じぶん…)、ただ、なんというか、自分さがしばっかりしてきたぼくが、結婚し、息子が生まれ、そして41才にもなると、遺伝子に組み込まれているのかもしれない、とじぶんでも不思議になるくらい、後世の人(息子も含む)のことや、少し周囲の人のこと、じぶんが住む地域のことを考え出したりして、「何かしなければ」という思いと「何かやってみたい」という思いが、わりと両立してじぶんを動かすモチベーションになっていて、ぼくにとってかなり珍しいこういうときぐらい、損な役回りを引き受けてもいいのかな、そんな程度。
 手を挙げて学級委員になる級友を「バカだ」とか「目立ちたがり屋だ」とか、ぼくは、たぶん、当時から、ほんとうは、「すごいな」とか「がんばれ」と思って見ていたように思うけど、それをその子に言えなかった。そういうことは、大学に行ってからも、社会に出てからも、そして今でもたくさんある。その反省、というのも、今のぼくを突き動かしているひとつの理由かもしれない。
 そうだな、ぼくは、やっぱり「最低にして最高の道」(高村光太郎)(参照)、そして、もう何年も、何十年も言ってるけど、吉本隆明「涙が涸れる」、宮澤賢治「三四八 告別」で、3人の詩人が後世に残してくれたものをバトンタッチしていきたいんだな。

   吉本隆明「涙が涸れる」



   きようから ぼくらは泣かない
   きのうまでのように もう世界は
   うつくしくもなくなつたから そうして
   針のやうなことばをあつめて 悲惨な
   出来ごとを生活のなかからみつけ
   つき刺す
   ぼくらの生活があるかぎり 一本の針を
   引出しからつかみだすように 心の傷から
   ひとつの倫理を つまり
   役立ちうる武器をつかみだす
   しめつぽい貧民街の朽(く)ちかかつた軒端(のきばた)を
   ひとりであるいは少女と
   とおり過ぎるとき ぼくらは
   残酷に ぼくらの武器を
   かくしている
   胸のあいだからは 涙のかわりに
   バラ色の私鉄の切符が
   くちやくちやになつてあらわれ
   ぼくらはぼくらに または少女に
   それを視(み)せて とおくまで
   ゆくんだと告げるのである


   とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな人々よ
   嫉(ねた)みと嫉みとをからみ合わせても
   窮迫したぼくらの生活からは 名高い
   恋の物語はうまれない
   ぼくらはきみによつて
   きみはぼくらによつて ただ
   屈辱を組織できるだけだ
   それをしなければならぬ

   宮澤賢治「三四八 告別」(『春と修羅』第二集より)



   おまへのバスの三連音が
   どんなぐあいに鳴ってゐたかを
   おそらくおまへはわかってゐまい
   その純朴さ希みに充ちたたのしさは
   ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた
   もしもおまへがそれらの音の特性や
   立派な無数の順列を
   はっきり知って自由にいつでも使へるならば
   おまへは辛くてそしてかゞやく天の仕事もするだらう


   泰西著名の楽人たちが
   幼齢 弦や鍵器をとって
   すでに一家をなしたがやうに
   おまへはそのころ
   この国にある皮革の鼓器と
   竹でつくった管(くわん)とをとった

   けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろで
   おまへの素質と力をもってゐるものは
   町と村との一万人のなかになら
   おそらく五人はあるだらう
   それらのひとのどの人もまたどのひとも
   五年のあひだにそれを大低無くすのだ


   生活のためにけづられたり
   自分でそれをなくすのだ
   すべての才や力や材といふものは
   ひとにとゞまるものでない
   ひとさへひとにとゞまらぬ


   云はなかったが、
   おれは四月はもう学校に居ないのだ
   恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう
   そのあとでおまへのいまのちからがにぶり
   きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
   ふたたび回復できないならば
   おれはおまへをもう見ない


   なぜならおれは
   すこしぐらゐの仕事ができて
   そいつに腰をかけてるやうな
   そんな多数をいちばんいやにおもふのだ


   もしもおまへが
   よくきいてくれ
   ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき
   おまへに無数の影と光の像があらはれる
   おまへはそれを音にするのだ


   みんなが町で暮したり
   一日あそんでゐるときに
   おまへはひとりであの石原の草を刈る
   そのさびしさでおまへは音をつくるのだ


   多くの侮辱や窮乏の
   それらを噛んで歌ふのだ
   もしも楽器がなかったら
   いゝかおまへはおれの弟子なのだ
   ちからのかぎり
   そらいっぱいの
   光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ

 それにしても「いつか電池がきれるまで」は、いつ読んでも、いろいろと考えるきっかけを与えてくれる、好きなブログだ。ありがとうございます、fujiponさん。

fujipon.hatenablog.com

■ 【!速報!】とかツイートするじぶんが恥ずかしくもある

 昨日、例のたられば書店の「予定物件」である「古民家」の契約に向けて、家賃保証会社から電話があり「審査が通ることを願う」というようなことを書いたが(参照)、きょうの午後、M不動産のYさんより電話があり、「審査が通りました。これから、具体的な契約に向けて、大家さんと話を詰め、書類を準備します。また準備が整ったら、ご連絡いたします」とのこと。
 とうとう、いよいよ、だ。
 ぼくは、その連絡を受けたとき、連帯保証人にもなってくれる妻にメールで報告した後、以下のようにツイートした。

 そして、その後、息子を保育所まで迎えに行き、新聞の折り込みチラシを見て、どうしても行きたくなった「春の北海道大物産展」@京阪百貨店(守口店)に息子といっしょに行き(なぜこうも、ぼくたちは、北海道の食べ物に弱いのだろう)、しこたま味見や買い物をして、それからさらに京阪百貨店内の旭屋書店(京阪守口店)で、息子といっしょに絵本などを見たり、読んだりした後(安江リエ作・山口マオ絵『はが ぬけたよ (こどものとも絵本)』と、津村記久子まともな家の子供はいない (ちくま文庫)』を購入)、どうしても「古民家」に行きたくなって、息子に「ちょっと、おとうさん、寄りたいとこがあんねんけど、いい?」と言ったら、息子は「いいよ」と言ってくれたので、夜の「古民家」前まで行き、以下のようにもツイートした。

 物件が決まると、いろいろと具体的に動くことができる。来週からは忙しくなりそう(…いやだなぁ←?)。

はが ぬけたよ (こどものとも絵本)

はが ぬけたよ (こどものとも絵本)

まともな家の子供はいない (ちくま文庫)

まともな家の子供はいない (ちくま文庫)

https://www.instagram.com/p/BDYDuu8PXt2/
きょうの夕食は、京阪百貨店守口店の北海道物産展で買った、鮨のぶの海鮮丼、道の駅なかがわのステーキ丼、たむらのぶた丼弁当、利尻郡・大窪商事の海藻を使った海藻サラダ。#鮨のぶ #道の駅なかがわ #たむら #大窪商事 #北海道展 #夕食

https://www.instagram.com/p/BDYCyoYvXrs/
京阪百貨店守口店の北海道物産展で買った「函館メルチーズ(北海道新幹線バージョン)」。行き先表示は「はやぶさ1号/新函館北斗」#北海道新幹線 #新函館北斗 #北海道展

https://www.instagram.com/p/BDYEwkSPXvn/
旭屋書店京阪守口店で見かけて衝動買いしてしまった安江リエ作・山口マオ絵『はがぬけたよ』(福音館書店)。こ、このワニは、あ、あの「わにわにさん」だ!#山口マオ #安江リエ #わにわにさん #ワニ #絵本

*1:参照:沈黙は金、雄弁は銀 - 故事ことわざ辞典

*2:ぼくは、例の「保育園落ちた日本死ね!!!」にまつわる騒動についても(あまりよく知らないが)、2/16、彼女がそこに書いた行為・内容は「すごく正直で、好感を持」った。でも、その書き方は、一種の「ヘイトスピーチ」なんじゃないだろうか、そして、それは、このひと月で、すぐ絶賛されることになった

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