たられば書店 (仮称) 開業日誌

大阪・守口市に「まちの本屋」(たられば書店[仮称])を開こうとする試み

すべからく、こと、山本大介と申します。
大阪府・守口市近辺で本屋を開業しようと思っています。(今のところ)屋号は「たられば書店」。
日頃忘れてしまいがち/あきらめてしまいがちなこと、「もし、…し『たら』/きっと、…す『れば』」を叶えられそうな場所をつくりたいと思っています。

普段は4才の男の子の父親であり、現役「主夫」です。

いま、どんな本屋が求められているのか? ぼくはどんな本屋がしたいのか?
書店業にはほぼ就いたことのない、ずぶの素人ですが、そんなぼくが考え、実行する記録です。
※2014年12月以降、ずいぶん更新停止していましたが、再開しました。(2016.2.25~)

にちじょうごともちらほら書いています。にちじょうと本(屋)は地続きだと信じているので。



小さな希望

 朝、7時起床。まだ日曜の「保育所まつり」の疲れが残っており、終日ゴロゴロ。

 島田潤一郎『あしたから出版社 (就職しないで生きるには21)』読了。
 島田さんの文学の「定義」がとても良かった。少し長いけれど、引用。

 大学生だったぼくが文学に惹かれたのは、文学にはすべてがあるように思えたからだ。大学で学ぶ学問が細かく専門化していき、実用的なものに吸収されていくのにたいして、文学はいかにもおおらかで実学とは違う場所で生きている感じがした。死も、恋愛も、青春も、不安も、退屈も、老いも、夕闇のほの暗い感じも、文学では、すべてが大切なテーマとなった。ぼくは、そういうものを勉強したかった。自分の身のまわりのことすべてが対象となるような学問に、身を捧げたかった。
 いい文章を読むと、「あっ、これは!」と思う。自分の頭のなかにあった言語化されていないなにかが、ここに、文章として再現されていることに、震える。ノートに写して、その文章を何度も読む。それは、映像や音楽などと違って、読んでいる自分と、分かちがたく結びついている。「美しい海」とあれば、それはぼくが見たもっとも「美しい海」と響き合うのであり、「やわらかな頬」とあれば、それはぼくが知っている、もっとも「やわらかな頬」と同じなのである。
 それはリアリティというのとはすこし違う。本のなかに書かれている文章を通して、読み手は、世界を再体験、ないしは再発見する。そこに描かれているのが、たとえ、フランスの片田舎のできことだったとしても、一〇〇年前に書かれたノンフィクションだったとしても、言葉という回路を通るかぎり、読み手は本のなかの世界を、いつでも自分に引き寄せて考える。これまで経験したことや、思ったことは、あたらしい言葉によってふたたび火をを灯され、いままで見てきたたくさんの景色や、いままで出会ってきたたくさんの人のことを、思い出す。それは美しいものだけではない。不安や、嫉妬や、仲違いや、憂鬱だった日々さえも、昨日の出来事のように生々しく思い出す。
 重要なのは、そうした体験をもたらしてくれる文章は、決して、読みやすいものばかりではないということだ。しかし、それは、その文章が最大公約数的につくられた、だれにでもすぐに通じるように書かれた文章ではないということだけであって、本質的に読みにくいというのではない。時間を費やして、何度も繰り返し読んでいれば、ほとんどの文章は、自分なりに理解することができる(と思う)。
 つまり、「私」の言葉とはちがう、だれかの言葉を、その文章を、一所懸命、読み続けること。その言葉で、世界をもう一度、体験すること。思い出すこと。それが、文学のいちばんの魅力であり、おもしろさなのだと思う。
 すばらしい作品を読んだあと、世界は、これまでよりも鮮やかに見える。人々は、よりかけがえのないものとして、この目に映る。

 ぼくは、愚直に、文学の読み手が増えれば、世界はもっと豊かになると信じている節がある。本当である。文学を読み、自分のことを思い、だれかのことを思うことで、逆説的に、言葉は不要になるのではないか、とすら思う。あの人は『戦争と平和』を読んだんだ。あの人は『こころ』が好きなんだ。それだけで、ぼくには十分なのである。
 けれど、文学は読まれなくなった、といわれている。半世紀以上も前から、そういわれている。本当だろうか、と思う。むかしから読まれていないだけなのではないか。
 いろんな統計を見ると、本を読む人の数は、むかしと比べられないくらい多いのである。かつては、文学は頭のいい人たちを中心に読まれたが、いまは、ぼくを含めて、もっと多くの人たちに読まれる可能性を秘めているように感じる。若者たちは本を読まなくなった。そう嘆く人は、本当にたくさん本を読んでいる人か、自身が読まなくなった人たちなのではないか、と思う。
 たしかに、電車のなかで携帯電話を眺めている人は増えたが、ぼくは、あまり、みんなが本を読まなくなったとは感じていない。
「いいや、すくないよ」というならば、ぼくが大学生だった二〇年前から、文学を読む人は少なかった。
 むかしから、ずっと、すくなかった。

 そして、島田さんにとって、本とはどういうものか。

 復刊したい本はほかにもあったが、叔父と叔母がそれをよろこんでくれるだろうかと思うと、自信がなかった。
 ぼくにとって、読者とは、まずだれよりも、彼らふたりであった。だから、ぼくがぼんやりと想像する一般的な読者というのも、いつでも、彼らのような人たちであった。
 別に、本が好きというわけではなく、文学なんて興味もない。でも、かなしみや、やりきれなさとともに、日々を暮らしている。テレビを眺めながら、だれかから電話があったのではないかと携帯電話の着信を気にしながら、あるいは、月を見ながら、こころのアナをなにかしらで埋めたいと願っている。
 文学が、本が、特効薬になるというのではない。けれど、一所懸命、本と向き合うことで、すくなくとも日常の慌ただしい時間からは逃れることができる。辞書を引きながら文字を追い、そこに書かれていることに自分の経験を重ね、ときに、だれかのことを強く思うことで、自分の時間だけは、なんとか取り戻すことができる。
 正確に読めばいいというのではない。知りさえすればいいというのでもない。本は情報を伝える媒体というよりも、こころを伝える「もの」であるように思えるのだった。

 最後に、島田さんにとって「本屋」とはどういうものか。

 孤独なときは、本屋さんへ行った。
 精神的に不調で、胸の内に抱えているなんともいえないモヤモヤは友だちのだれにも伝わらなくて、もちろん家族にもいえなくて、さみしくて、つらくて、夜になると、もっとさみしくなって、でも変に怒りっぽくもあって、そんなときは、本屋さんへ行った。
 本屋さんには、いつでも、たくさんの本が並んでいた。どんなに小さな店にも、たくさんの本があった。小説、エッセイ、ノンフィクション、コミック、絵本、旅行書、美術書、実用書、数百種類の雑誌……。
 ぼくは、いつも、新刊コーナーを見て、それから雑誌を見て、美術書を見て、文庫を見て、コミックを見て、ちらっと児童書を見て、サッカー関係の単行本を見た。
 そして、いまになって、わかるのだった。
 あのとき、ぼくが必要としていたのは、本や雑誌というよりも、本屋さんという場所そのものなのであった。本屋さんが友人であった。ぼくは本が好きというよりも、本屋さんが好きなのであった。

(略)本を読むということも、人と会うことと同じだ。たとえば、小説に登場する悪役は、ぼくがもっとも嫌いだった人によく似ている。主人公をいつも助けてくれるすばらしい人物は、ぼくが尊敬するすばらしい友人のようで、魅力的なヒロインは、ぼくが好きだった女性のことをどこか思わせる。本を読むということは、知らなかったことを知るということであり、忘れていたいろんな記憶を思い出すということでもある。
 本は、あらゆる場所と、人とに、つながっている。携帯電話や、インターネットとは違い、抽象的に、控えめに、つながっている。本屋さんもまた、抽象的に、控えめに、あらゆる場所と、人とに、つながっている。
 ぼくが全国の本屋さんをまわり、真っ先に感じたのは、なつかしさだった。懐古趣味というのではない。しばらく会っていなかった人に会ったような、よろこびともいえる。なつかしさだった。日本には、そうした本屋さんがたくさんある。
 ぼくは、町の本屋さんが好きだ。大好きな本屋さんも、小さな本屋さんも、個性的な本屋さんも、そうでない本屋さんも、全部好きだ。死ぬまで通いたい。そのために、できることをやりたい。

 ここで書かれた決意のようなものが、「町本会」の礎(いしずえ)になっているのだと思う。
 そうなのだ、本屋はぼくにとっても、決して明るい思い出というよりは、暗い思い出、暗黒時代の暗黒のときを過ごす場所だった。それは、ぼくにとって、図書館ではなく、(古)本屋だった。18才まで、京阪寝屋川市駅前の、中尾書房であり、中村興文堂であり、金箔書房(古本屋)に行くときは、いつも暗い気持ちだった。そして、孤独だからこそ、本屋に行った。孤独ではなく、誰かが側にいれば、本屋に行く必要などなかったかもしれない。
 そういう意味では、今、本屋に行かなくても、孤独を紛らわせることのできるメディアは多くあるから、そういうとき、本屋になど行く人(若者)は、少ないかもしれない。でも、そういう人に向けて、ぼくは、本屋をやりたい。店を開いておきたい。きっとこの先も「本好き」がいなくならないように、そういう若者もいなくならないと思う。
 そして、ここで引用したように、本は「抽象的に、控えめに、つながっている」メディアであるのだ。そういうつながり方が好きな人もきっと今後もたくさんいるはずだ。

 島田潤一郎『あしたから出版社』は、島田さんの半生記、そして、夏葉社の創立からこれまでを書いたものだけど、本好きの「これまで」と「これから」を書いた本に他ならない。そして、それは、誰にとっても、小さな希望なのだと思う。

 先日の「町本会」で、島田さんにサインをもらった。
 「たられば書店」って、初めて、ぼく以外の誰かに「書いて」(認知して)もらった。このサインは一生の宝物になると思う。

あしたから出版社 (就職しないで生きるには21)

あしたから出版社 (就職しないで生きるには21)

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