たられば書店 (仮称) 開業日誌

大阪・守口市に「まちの本屋」(たられば書店[仮称])を開こうとする試み

すべからく、こと、山本大介と申します。
大阪府・守口市近辺で本屋を開業しようと思っています。(今のところ)屋号は「たられば書店」。
日頃忘れてしまいがち/あきらめてしまいがちなこと、「もし、…し『たら』/きっと、…す『れば』」を叶えられそうな場所をつくりたいと思っています。

普段は4才の男の子の父親であり、現役「主夫」です。

いま、どんな本屋が求められているのか? ぼくはどんな本屋がしたいのか?
書店業にはほぼ就いたことのない、ずぶの素人ですが、そんなぼくが考え、実行する記録です。
※2014年12月以降、ずいぶん更新停止していましたが、再開しました。(2016.2.25~)

にちじょうごともちらほら書いています。にちじょうと本(屋)は地続きだと信じているので。



木桶としての書店

 10月スタート。
 7時すぎ、起床。妻と息子を見送った後、原付に跨がり、門真ハローワークへ。
 門真ハローワークは、守口門真商工会議所と同じビル内にあり、商工会議所には、「創業相談」に一度訪れたいと思っているものの、なかなか足が向かず。10時ごろ帰宅。
 きょうは、なぜか猛烈に眠たくて、それから16時すぎまで眠ってしまっていた。

 先日、読み終えた、木村俊介『善き書店員』。
 インタビュアーの木村さんが書いた「はじめに」や「8章 普通の人に、『長く』話を聞いて記録するということ」、そして「おわりに」の文体がとても良かった。1文が長いという特徴がある木村さんの文章は、読んでいて心地良い。今のネットの文章は、文章というより「キャッチ」の連続のようで、情報を知るためのものであり、読む心地良さというものを感じられないのだけど、本書での木村さんの文体は、インタビュー記事の部分も含めて、人の(ぼくの)思考回路が文章にされたような感覚がある。短文で考えられるほど、人の思考回路は単純ではない。ひとつのことを考えるのに、色んなこと(余計なものもふくめて)が混ぜ合わさってくる。
 本書は、佐藤純子さん(ジュンク堂書店仙台ロフト店*1)、小山貴之さん(東京堂書店神田神保町店)、堀部篤史さん(恵文社一乗寺店)、藤森真琴さん(廣文館金座街本店)、長﨑健一さん(長崎書店)、高頭佐和子さん(丸善丸の内本店)という、6人の書店員へのインタビューで成り立っている。ぼくは、やはり、その内容というよりは、インタビューの「仕方」に大きく興味をもった。「話し言葉」から「書き言葉」になるときにそぎ落とされるものを「逃がさない」ようにしている、その網の張り方というか、聴き方というのだろうか。そのなかでも印象に残ったのは、まず、藤森真琴さん(廣文館金座街本店)の、以下のようなことば。

 いい本を積極的にすすめてもらいたい人もいれば、そうでない人もいる中で、うちの店はすごい本好きが集う店を目指しているわけでもないんです。あんまり別に本には興味はないとかいうかたも入ってこられる…それが本来は、本屋という場のいいところだと、最近つくづく思うんですね。本そのものが好きだから本屋にくるという人は、多数派ではないだろう、と。本ってどんなジャンルでも展開していますから、みんなはおそらく、それぞれ好きな分野に会いにくるんだろう、と私としては捉えているんです。

「本来の本屋という場」についての、藤森さんの意見に、ぼくは賛同する。また続けて、昨今の本が売れないという状況については、

(前略)そこには危機感もありますが、先細りしていくことになって、なにかこう、これまでよりはもっと丁寧な商売をしていく世界に入っているものではないかとも感じます。逆に、成熟していって、それぞれのかたにあったものを、お客さまをじーっと見ることでちょっとずつ提供していくことができるようにもなったのだな、と。

「丁寧な商売」←→本屋は「アバウトな商売」という言い方は、一昨日お話を聞いた、「ブックスふかだ」の深田さんも仰っておられ、それをどうにかしようとやってこられたということだった。以前の本屋は「アバウト」でも商売が成り立ったということが、うらやましい。

 次に、長﨑健一さん(長崎書店)のことば。

(前略)本屋をやることはある時期からはライフワークとして取り組めるものなんだとわかりましたから、それは飽きずに続けられてうれしいんですよ。なにか発見があれば「これはいただきだ」と思いますし、その発見を店に持ち帰ったあとに、「売れた」とか反応があればよろこびますし、なんというんですかね、自分が見聞きしたり旅をしたりしてきたことすべてがフィードバック可能なのが本屋という場所なんですよ。それが本屋のいちばんおもしろいところなんじゃないでしょうか。
 本屋であつかう情報の種類って、新刊既刊を含めたらものすごく多いからこそ、自分がどこかの土地にいってみて感動したものを活かせる余地がかならずどこかにあるんです。だから、その感動を書店という自分にとっての仕事の現場で表現してみせることもできるし、しかもそれに反応があるうれしさも反応のなかった悔しさも実地で確かめられる立体的なところがいいんですよね。そうです、本屋って、すごく立体的な場所だと思うんです。敷居は低いからいろんな人が気軽に入りやすいけれども、深みや奥行きも作れるから、書店のほうで制限さえしなければ、やろうとすれば、扱う商品もメインの取次を通さなくても、いくらでもおもしろい出版物や、出版物に留まらないものだってあつかえるわけです。

 「本屋って、すごく立体的な場所なんです」と、インタビューのなかで、我が意を得たり、となっている状況、話しながら長﨑さんが「あぁ、じぶんの言いたいことって、こういうことだ」ってわかった瞬間が読み取れるのが、とても良かった。そして、ネット書店と違うところは、この「立体的」なところなんじゃないか、リアル書店は、この立体さ加減をどう工夫するかなのではないか、と思えた。
 さらに、長﨑さんのことばから。

 リニューアルして一年ぐらいの時期に、ある親子連れのお客さまがいらして、絵本のコーナーはどこですかと訊かれたのでご案内したんです。(略)二十代後半のぼくなりの、気負った考えかたが強く出すぎた棚だったのかもしれません。すると、売り場を見ていたお母さんがぽっと「なんか、まじめな本しか置いていないんですねぇ」とおっしゃった。
 いわれた時には、申し訳ございませんとお伝えしながらも反射的には「この棚のよさがわからないなんて」と思ってしまったんですけど、あとですごくへこみもしたし、やっぱり最終的には自分が間違った自意識で売り場を作っていたんだなと気づかされたんですよ。売り場って自意識で作るものなんじゃないよな、地域のみなさんとつながっていく町の本屋なのに、おれはなんでよそゆきの店を作ろうとしていたんだ、と。だからいまでは絵本のコーナーに『アンパンマン』や『プリキュア』のシリーズだとかいったテレビアニメで人気のものも置いていますけれども、それって地域のかたがたが親子連れで日頃から通ってこれるような普段使いのお店にしなければ、と反省したからなんです。
 おしゃれな人がきてくれるのはウェルカムなんだけど、その方向だけに進んで美術館みたいなお店にしてしまってはいけなかったんだな、と。

 ぼくの「たられば書店」も、「美術館みたいなお店」にはしたくない。子どもたち向けの月刊誌や、若者向けの週刊誌も置きたい。けれど、それにはどうしたって、「取次」との契約が必要になってくる。どこか、ぼくの小さな本屋と契約してくれる取次は現れないものか(先日、ある大手取次に電話をかけて断られてしょんぼりしていたけれど、きょうは、別の取次のHPの問合せメールフォームから「書店開業について」という件名で、メールを送ってみた。反応があるかどうか。明日は、片っ端から取次に連絡してみようかと思っている)

 長﨑さんは、売上が落ちている書店の状況について、こう言う。

(前略)つまりぼくたちにとっての仕事の本質というのは「町の本屋の最高峰」という目的に照らし合わせれば見えてくるものだと思っています。これだけ本屋の売り上げがきびしい中では当たり前なのかもしれませんけれども、ついついつぶれないようにと抜本的な解決策を先延ばしにしてしまいがちなところから抜け出すには、ほんとうの目的に照らし合わせなければならないように考えているんですね。

 長﨑さんが、ことある毎にインタビューで名前を出していた、福岡の「ブックスキューブリック」という書店。ここは、もし、九州の書店を巡る旅ができたなら、「長崎書店」、「橙書店」、そして「木城えほんの郷」とともに、訪れたい場所だ。

 高頭佐和子さん(丸善丸の内本店)は、本屋の未来について、「木桶(きおけ)」に例えているところがおもしろかった。

 ほんとうの意味で書店員に興味を持っている人なんていないんじゃないでしょうか。また、それでいいと思うんです。書店員って、いつも本にさわっているから多少は本のタイトルには詳しいわけですけど、それ以上でも以下でもないんですもんね。並べて売るというのが私たちの本来の仕事なんです。本の魅力をプロとして伝えるとなれば、それは書評家の言葉のほうがずっと届くはずです。書店員がほかの人よりも得意にできることは、本を並べることぐらいでしょうから、お客さんがこういう本を欲しいと思っているものを届くように工夫して並べる売り子なんですよね。
(略)いま、そういう書店員としての仕事が社会の中で曲がり角にさしかかっているのかどうかといえば…うーん、そうかもしれないなとは思います。社会の中の本屋というのは、すごく遠い未来には、たとえば、かつて使われていたものでいえば「木桶」みたいなものになっていくかもしれないなとは思うんです。書店員がひとりもいなくなるかといったら、それが木桶がいまもまだ残っているように残るだろう、というように感じているんですね。
 桶の話でいうと、いまって、基本的にはプラスチック桶を使ってみんなはお風呂に入るわけですけど、すると木桶なんてほとんどの人が日常的には使わないものになるんだけれども、それでもちょっと、旅館にいったら使ってみたいし、求める人は少数でもずっとい続けるだろうなとは思うんですね。つまり、職人のかたがたが木桶をひとつも作らなくなったとしたらそれは困るという。本屋もそれと一緒で、なくなったらとても困るのではないかと思います。

 たぶん、書店員、書店人じゃなくても、じぶんの仕事に対するおもしろいことばは聞くことができるだろう。でも、ぼくは、斜陽産業にすらなってしまった本屋の、書店員、書店人のことばだから、『善き書店員』は、とてもおもしろい本になったのではないかと思われる。

善き書店員

善き書店員

*1:2014年8月閉店してしまったらしい

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