たられば書店 (仮称) 開業日誌

大阪・守口市に「まちの本屋」(たられば書店[仮称])を開こうとする試み

すべからく、こと、山本大介と申します。
大阪府・守口市近辺で本屋を開業しようと思っています。(今のところ)屋号は「たられば書店」。
日頃忘れてしまいがち/あきらめてしまいがちなこと、「もし、…し『たら』/きっと、…す『れば』」を叶えられそうな場所をつくりたいと思っています。

普段は4才の男の子の父親であり、現役「主夫」です。

いま、どんな本屋が求められているのか? ぼくはどんな本屋がしたいのか?
書店業にはほぼ就いたことのない、ずぶの素人ですが、そんなぼくが考え、実行する記録です。
※2014年12月以降、ずいぶん更新停止していましたが、再開しました。(2016.2.25~)

にちじょうごともちらほら書いています。にちじょうと本(屋)は地続きだと信じているので。



まぶしいよ、あんた

 昨夜(ゆうべ)、『子どもの本屋、全力投球 (就職しないで生きるには 9)』を読んだ。
 昨日は、早川義夫ぼくは本屋のおやじさん (ちくま文庫)』に続き、晶文社の〈就職しないで生きるには〉シリーズ(第1弾・「http://www.shobunsha.co.jp/?cat=93:title=第2弾(21)])には、ほんとうに、励まされる、というか、ぼくの重い腰を支えてくれている(「まだ『重い腰を上げる』までには至っていない)実感がある。
 実感が強すぎて、昨夜(ゆうべ)は、本に挟まれていた「愛読者カード」を書いて、夜中の1時に、ポストまで投函しに行ってしまったぐらいだ。晶文社の編集者、もちろん、著者に感謝を伝えたかった。〈就職しないで生きるには〉は、こんなぼくにでも、なんとか、なにか「できるのではないか」そう思わせてくれるシリーズ。
 『ぼくは本屋のおやじさん (ちくま文庫)』は、想像通り、四日市にある子どもの本の専門店「メリーゴーランド」開業の経緯(あまり語られてはいなかったけれど)、開業後の地域の人々、子どもたちとのエピソードなど。とくに心に残った文章もなく、少し情熱的すぎで、今のぼくには、元気がありすぎて滅入ってしまったけれど、情熱がなければ、やはり書店の開業などはできないのかもしれない。いや、でも、もちろん、ぼくも最低限の情熱はある。でも、実は「それほど情熱ナシ」に、ぼくはやってみたいと思っているのだけど。

子どもの本屋、全力投球 (就職しないで生きるには 9)

子どもの本屋、全力投球 (就職しないで生きるには 9)

 その後、そのまま眠れずに、というか、眠らず、に、読みかけていた角田光代ひそやかな花園 (講談社文庫)』読了。
 この作品は、ちょうど先週の8日、息子といっしょに旭屋書店京阪百貨店・守口店)に出かけたときに購入した。店内をぐるぐると歩き回る息子といっしょのため、いっこうにゆっくり本を見ることができないでいたので、少しイライラし、もう帰ろうと思ったときに、平積みされているこの本の帯の「わたしの父はだれなのか。」、「『父の証し』とはなにか。」という文が目につき、内容も一切確認せずに、購入。この帯文がなぜ気になったのかというと、実は、ぼくは、やっぱりまだ息子と、正面から向き合えていない、関係づくりができていないと思っているからだ。この7月で息子は3才になったということは、ぼくも父親3才と同意なわけだけれども、もちろん、息子のことをかわいいと思うし、愛おしいとも思う。でも、最近、流暢にことばを話すようになってきて、こちらの言うことにもことばで反抗するし(「いーやーよー」は今まで通り、それに「○○ちゃうわ!」などと言ったり、「おとうさんのこと、きーらーいー」「おとうさんがわーるーいー」など)、相変わらず外ではいっしょに歩いていても、手をつなぎたがらず(それで以前と比べればずいぶんつないでくれるようになった)、ずっと息子の様子を見守りながら歩いていなければならないし、部屋ではおもちゃは片づけないし、ご飯もあまり食べない(お菓子はたくさん食べる)し、ほんとうにイライラしっぱなしだ。正直、父親として、息子を愛しているか自信や自覚が乏しい。つらいことだけれど。
 でも、よぉく、わかっている。ほんとうにイライラしている対象は、息子ではなくて、ぼく自身なのだ。ぼく自身が「お前の父親はこうやって(これを生業に)生きている」と胸を張れない生活を送っているから、息子にいつかそのことを見抜かれるのではないかとビクビクしている。彼に胸を張れるようになるためにも、ぼくは、ぼくのやりたいことをやり始めなければならないのだと思っている。そして、そのために、2年前、サラリーマンを辞めたのだ。その決意がこの2年間でグラグラに揺らいでいる。だから、息子にイライラしているのではなくて、実はじぶんにいちばんイライラしている。よぉくわかっているのだけど、わかっているからこそ、悔しいし、イライラする。
 『ひそやかな花園 (講談社文庫)』は、とても久しぶり(『八日目の蝉 (中公文庫)』以来だと思う)の角田光代作品だった。AID(非配偶者間人工授精)で生まれた子どもたちの困難を通して、親と子の結びつきのあり方を、「角田調」で語りあげていた。じゅうぶんにまとまった良い作品だった(でも、ぼくは、いつも、この「じゅうぶんにまとまっている」角田調が苦手でもある。読者に隙を与えない感じ)。
 印象に残ったことばは、樹里の母親のことば。AIDという方法で子どもを授かったことに「後悔はないのか?」と問う樹里に、

(前略)生まれたのがあなたでも、あなたでなくても、後悔なんかしなかった。後悔しているただひとつのことは」樹里は母を見る。母は顔を陽にさらしたまま、言う。「しあわせを見くびっていたことかな」樹里に視線を移して母は微笑んだ。「私とあなたのパパは、クリニックで、さまざまな(精子バンクの--引用者註)情報を見るうちに、よりいい学校を、よりいい容姿を、よりいい暮らしを、よりいい収入を、って気持ちになっちゃった。それが、生まれてくる子に対するせいいっぱいの善きことだと思い込んだ。」(略)「でも重要なのはそこじゃない。善きことは、その子が生まれてからじゃないと与えられない。だってその子は私たちと違う世界を生まれたときから持っていて、その世界では何がしあわせか、わからないでしょう」(P.337)

 ぼくは、息子に対して、とても恐れている。何に恐れているかというと、息子にしあわせ(ここでいう「善きこと」)を与えられる父親足りえていないのではないか、そして、これからも足りえないのではないか、ということ。確かに、何がしあわせかを選ぶ権利は息子にあり、現時点で、息子がぼくのことを「父親足りえている」と言ってくれるのであれば、それでじゅうぶんなのだけれど、いくらことばが流暢に話せるようになったからといって、今の時点でそれを伝えてもらうのは無理な注文だし、「おとうさんのこと、きーらーいー」「おとうさんがわーるーいー」と、冗談でも言われると、今のぼくにはすごくこたえる。
 あと、エピローグで、彩有美(さゆみ)が書いた見知らぬ父宛の手紙のなかで紹介した波留(はる)のひとりで旅行にいったときのエピソード。

(前略)私たちが、今日、こわがらずに家を出ていけるのは、迷子にならない保証や困った事態にならない確信があるからじゃない。何かすてきなことや人にきっと会える、困ったときにきっとだれかが助けてくれる、そう思うことができるから、なんとか今日も明日も、出かけていけるんじゃないか。大げさにいえば、生きていかれるんじゃないか。(P.371)

 『子どもの本屋、全力投球 (就職しないで生きるには 9)』にしても、『ぼくは本屋のおやじさん (ちくま文庫)』にしても、この手の起業・開業本を読んでいると、彼らはいろいろな人に助けてもらっている。それがとてもうらやましい。ぼくが何かをしようとしても、ぼくには助けてくれる人なんていないんじゃないか、そう思ってしまう。でも、もちろん他力本願ではないけれど、ぼく自身が(本気で)動けば、何か向こうからやってくるものが自ずからある、そう信じないとやっていけないことは確かだ。そう思わせてくれた勇気のことば。

ひそやかな花園 (講談社文庫)

ひそやかな花園 (講談社文庫)

 きょうは、一昨日の白浜行き、そして、ほとんど朝まで眠れずに本を読んでいたこともあって、疲れてしまい、また妻ひとりに息子の面倒を見てもらうことになって、申し訳なかった。
 申し訳ないと思いながら、自室で、三島邦弘『計画と無計画のあいだ: 「自由が丘のほがらかな出版社」の話 (河出文庫)』読了。
 今では本好きなら知らない人はいない「ミシマ社」の、起業からその五年を記した本。物事を説明するときの筆者の比喩が長く、わかりやすくするためにサッカーや野球などに例えていたのが読みづらかったが、物事を進めることに「(野生の)感覚」を忘れないようにすることや、現代社会が、効率を重視するあまりに「ブンダン(分断)主義」に陥っており、そうならないことが「これからの社会(出版や本でも)」に重要であることを説いていることはよく伝わってきた。

(前略)考察の俎上(そじょう)に載せるべきは、「理屈か、感覚か」の二者択一を捨て、「理屈も感覚も」維持しつつ熱を上げる、その方法である。(略)
 熱をこめた本は熱量そのまま、あるいは増大した形で読者のところへ届くほうがいい。
 理屈じゃなく、肌感覚として。絶対に。
 ところが、理屈(というより、目先の損得勘定や諦念など)が感覚を完全に支配してしまっている。これが現状なのだ。
 だけど、どうしてこんなふうになったのか?(略)
 私見を述べれば、効率主義の帰結、そしてその帰結としてのブンダン主義の結果ではないか、と思っている。
 ブンダン主義---。
 それは、ありとあらゆることを切り離して考えようとする悪癖であり、その内輪の論理(組織内論理)を絶対として、外部との連携を積極的におこなわず、内部完結してしまうことに一点の疑問も抱かない、悪しき習性をさす。(後略)(P.204)

 ぼくも、じぶん自身のなかで、ブンダン主義に陥っているのかもしれない。何かを始めるまえにすでに効率なんかを考えてしまって、そんなレベルまで物事が達しているほど、何も始まっちゃいないのに、考えてしまい、「何かしたい」という感覚が完全に理屈に支配されてしまっている。そして、「何かしたい」という感覚までもが「何もしない方がいい」というものに変化してきてしまっている。それが現状だと思う。

 もともと人生なんて初めての連続なのではないのか。(中略)
 本来、初めてのことに対応するとき、頼りになるのは自分の感覚しかないだろう。(中略)
 つまり、無計画線を支えるのは、感覚なのだ。感覚が無計画線の線を遠くまで延ばしてくれる。(中略)

 「計画と無計画のあいだ」を揺れ動いているとき、人は初めて自由を感じうる。そして揺れ動く二つの間隔が広ければ広いほど、自由度は高い。
 これが、この五年間をふりかえる最中に得ることのできた、ぼくなりの発見だ。(P.253)

 著者が示す「計画と無計画のあいだ」=自由という図式は、なかなかわかりやすかった。そのうえで「計画(線)」も必要だという。「計画」のない状態は、「たんなる暴走だ」という。
 この本で書かれているのは、角田光代ひそやかな花園 (講談社文庫)』の感想で引用した、波留の「迷っても(本気になっていれば誰かが)助けてくれる」という自信があるから、前に進めるのだ、ということばともつながる。
 著者の論理でいうと、ぼくの今の状態は「計画と無計画のあいだ」が、線で分かれている状態ではなく、もう無茶苦茶。どこまでが無計画で、どこまでが計画的なのかがわかっていない、自覚できていない。だから、ものすごく「不自由な」状態だ。最初は、無計画(感覚的)でいいのに、妙に計画を練ろうとするから、何もできないと思ってしまう。

 でも、いちばん、この本で印象に残ったのは、

(前略)会社を立ち上げる前の鬱々としていた頃、ベンチャーを立ち上げた人、何かに挑戦している人たちを見ては、こんなふうに感じたものだ。
「まぶしいよ、あんた」(P.78)

 晶文社の〈就職しないで生きるには〉シリーズを読んでも、この本を読んでも、今のぼくは、このときの著者と同様、「まぶしいよ、あんた」と感じることがいちばん大きい。でも、これまで、まぶしすぎて読むこともしなかったこういう成功譚の類を読めるようになっただけでも、少しやる気が出てきたのかと「じぶんでじぶんを褒めてあげたい」。

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